取手市立小文間小学校旧校舎新HP
長倉先生の学校ではこの学校が一番好き。船越徹
(「オーラルヒストリーで読む戦後学 校建築ーいかにして学校は計画されてきたかー」日本建築学会編 2017年 58pより抜粋)
2024/7/9日本建築学会見学会
2024年7月9日、日本建築学会・教育施設小委員会主催、有志による旧取手市立小文間小学校旧校舎及び旧取手市立井野小学校見学会がおこなわれました。
その際の意見・感想集が日本建築学会・教育施設小委員会主査:下倉玲子 先生によるとりまとめで完成いたしました。
当日は取手市教育委員会より職員お二人及び本HP管理人:鈴木厚とHP作成協力者:アトリエ學林・坂幸子氏が同行致しました。
取手市小文間小学校と井野小学校の視察を終えての意見・感想
日本建築学会・教育施設小委員会 2024年10月18日
日本教育施設小委員会では、教育施設に関する研究と実践の情報共有をし、シンポジウムや雑誌記事等を通して情報発信を行なっています。2024年7月9日に学校施設計画の発展に貢献した長倉康彦氏が設計した取手市の小文間小学校と井野小学校の視察をする機会を得て、委員たちは様々な刺激を受けました。その内容を以下に記します。
◾️下倉 玲子 ― 呉工業高等専門学校
小文間小と井野小を見学させて頂いて、設計の凄さを感じ取ることができました。長倉先生の学校建築は資料上で知るだけでしたが、実際に見てみないと分からない感動が多く、現物として残っている大切さを感じました。
小文間小学校は小規模で長倉先生の考えを理解するのにちょどいい教育財産と思いました。平家建てなので耐震補強などの活用に向けての改修への投資も比較的少なくすみます。活用用途については、教室は屋外空間と接続していることからアート活動との親和性は高いです。取手市は取手アートプロジェクト(TAP)があるように芸術的感度は高いと思います。活用方法として、アーティスト・イン・レジデンスや貸し出しによるアトリエ利用や市民芸術のギャラリー利用などが考えられます。またアーティストが自作の物を売る場としてもちょうどいい部屋割りかと思います。客がいない間は作品を作り客が来た時だけ接客するスタイルです。1つの部屋だけショップとして、持ち回りでレジを担当する方法もあります。部屋貸しをすると家賃収入があるので公費投入が少なく済みます。管理方法ですが、小文間公民館と近いことから、そことの連携管理もあり得るのではと思いました。
井野小は、建物の造形的に大変ユニークでこれも行ってみなければ分からない魅力が盛りだくさんでしたが、大規模ゆえ、保存活用は現実的でない気がしました。しかし、見学の時に4・5人の子どもたちが学校に忍び込んで遊びに来ていたように、子供にしか分からない一般の公園では味わえない魅力があるのだと思いました。それをヒントに、建物は解体するけれども、何らかの痕跡は残し、取手市にある一連の長倉建築の記念公園とし、市民が集う空間にならないものかと思いました。
おこがましい提案になってしまいましたが、お伝えしたいのは、小文間小も井野小学校もどちらも後世に残したい遺産であること、保存活用が難しくても長倉建築があった歴史を残すことで取手市のシビックプライド形成にもつなげていくことが大事なのではないかということです。
◾️倉斗綾子 ― 千葉工業大学
小文間小学校には、2015年3月の閉校直前?に一度訪問した経験があり、それから10年弱が経ち、今回は2度目の訪問でした。校庭側から見た校舎の外観は、前の見学時よりも背丈の伸びた草木の中にたたずむスケール感が、以前と大きく変わることなく、とても穏やかで優しい印象でした。この校舎の見学中に度々浮かんだキーワードは、身体スケール、スケール感、そして環境です。外観の佇まいと同様に、屋内の空間も、子どもの身体スケールにあわせた低い軒の高さや従来型校舎のような大きくシンプルな寸法規格とは異なる細やかな寸法設定、そして校内に差し込む穏やかな光が非常に印象的です。今でも、見学した日の空間を思い出すと、照明を点けていないのに光がどこからともなく差し込んで柔らかく明るい空間が脳内に再現されます。
そして今回初めて訪れることができた井野小学校では、さらに規模の大きい標準規模の学校校舎でありながら、やはり子どもたちの身体スケールに合わせた決めの細やかな寸法設定に驚かされました。教室の出入口周りの物入れや手洗いを含む住居のような細かな作り込みだけでなく、3階建ての校舎でありながら、まっすぐな廊下に教室が並べることや、学年毎のユニットをクラスター上に連ねるというような「型」では説明できない豊かな空間性を体験できました。
校舎見学を終え、外に出てきたときに校舎の裏庭のような場所でであった少年たちは、一瞬、この学校が子どもたちに使われていた時代から住み続けている亡霊と思うような、昔から子どもたちがそうだったように、汗で光る浅黒い肌に少し汚れたTシャツ、短パン子どもらしい雰囲気で落ちていた木の枝を振って遊んでいました。この空間がそういう子どもたちを引き寄せるのか、この空間にいると子どもたちが「子どもらしく」なるのか、と嬉しい気持ちでしばらく見入ってしまいました。
長倉先生にとっては孫弟子のような立場にいる私としては、まだまだ到底足りてない自分の学校建築に対する考えを思い知らされ、気合いを入れ直すとても良い機会になりました。また、長倉先生の作品の中に、建築計画だけでなく環境工学、意匠設計、心理、認知、等広く多くの知見と知識を学びとることができました。
◾️高橋 麻子 ― コクヨ株式会社
今回、長倉先生が設計された代表的な学校である小文間小学校・井野小学校を初めて見学させていただきました。小文間小学校では、一言で表現すると、とても心地よい空間だと感じました。子どもの視線や身体寸法にとって適切な空間のスケール感や、窓の位置や大きさによる外から差し込む柔らかな光と、それに伴う空間の明るさがとても印象的でした(おそらく、風通しも良くそれも心地よかったのではないかと想像します)。また、中央に設けられたビオトープ、廊下ではなく教室内に設置された流し台など、子どもたちの学びの活動や生活を踏まえながら丁寧に設計された建物だと感じました。廊下の窓の一部が色ガラスやすりガラスでデザインがされていたところにも、長倉先生の愛情を感じました。
井野小学校も、大規模校になりますが、校舎内の空間のスケールは子どもの身体寸法が考慮され、また、窓の大きさや位置、流し台やトイレの場所などきめ細やかな配慮が施されており、一歩校舎の中へ入ると落ち着いた雰囲気が感じられました。
子どもたちが学校生活の中で日々触れて使用する家具を提供している身として、改めて子どもの視点やスケール、活動を踏まえて丁寧に、かつ、愛情をもってモノづくりをしていく大切さを学ばせていただきました。この度は貴重な機会を与えていただき、誠にありがとうございました。
◾️伊藤 景子 ― フリーランス
先日は、小文間小学校旧校舎、井野小学校旧校舎を見学させていただく貴重な機会を頂き、ありがとうございました。
小文間小学校旧校舎を見学して一番強く感じたのは、その昔、市町村といった行政区が生まれる前から、日本中の集落の大人たちがその集落の子どもたちを思いその集落の子どもたちのために作ってきたであろう「学び舎」の匂いでした。
今日の小学校、特に公立の小学校の校舎は代表的な「公共施設」と考えられます。公教育が全国どこでも変わらぬ環境で提供されることが重視された時代に、全国規模の標準的プランが策定されたのも、集落の規模や範囲が大きくなり人々の結びつきの希薄化が懸念される時に、地域コミュニティの核となるように計画されるのも、小学校に対する公共財としての役割への期待があればこそだと思います。昨今では、図書館や公民館や役所との複合化も進み、将来の高齢者福祉施設などへの転用も見据えた計画も見られます。災害時対応として、避難拠点としての機能性への配慮も求められるようになりました。
その意味で現在の小学校の校舎は、かつてのようなその集落の顔の見える子どもたちのためだけに作られた「学び舎」から、より広い地域のより幅の広い不特定多数の人々使用に耐えうる「公共施設」に変容した、と言ってもいいかもしれません。そして「建築計画学」とは、そのように建築物の個別性が公共性或いは汎用性に変容する過程で生まれてきたものであるとも言えます。
小文間小学校の設計者である長倉康彦先生は、学校建築計画学に大きな足跡を残された方です。教育界とも呼応した革新的な教育理念を具現化し教育改革の舞台となるべき学校を設計されています。私にとっての長倉先生設計の学校は、個としてのその学校そのものというより、先生の哲学が具現化したテキストのようなものでした。テキストですから、個別の子どもたちの生々しさはありません。先生が、顔も知らない未来の子どもたち、広く日本中の子どもたちを想像しながら、彼らを招き入れるための範となるプランを提示された、というような印象を持っていました。なので、小文間小学校旧校舎を見学させていただいて、非常に個別的な、ある意味プリミティブな「学び舎」的匂いに、とても驚きまた。
小文間小学校旧校舎は、集落の大人たちがその集落の顔のわかる子どもたちのためだけに作ってきた「学び舎」の残照が、先進的な建築計画の曙光に消されず重なり合ったような、貴重でとても幸せな建築だと思います。地域の大人たちの熱意を受け、専門家の建築計画的知見を取り入れながらも、公共性の為の汎用性よりも、学年ごとといった子どもたちの個別の事情を優先して、手工芸的に子どもたちの周りに組み立て上がった校舎という印象を受けます。ディテールへの丁寧なアプローチは、例えば中庭のスケール感だったり、子どもたちの視界が斜めに開けていく袖壁だったり、見学に一度訪れた私たちにも気付けるものはありますが、おそらくはここを毎日の生活の場とする子どもたちにしかわからないものがあるのではないでしょうか。それはいわば設計者と子どもたちの内緒話で、子どもたちのみずみずしい感覚に非常に豊かな空間的経験を提供していたはずです。
このようなことを考えながら小文間小学校旧校舎の将来を考えますと、文化資産として保存されることはもちろんですが、この校舎が「子どものため」のものであったことを大切に、何らかの形で子どもが主体的に参加できるような利用の道が開かれることを心から願わずにいられません。
一方、井野小学校旧校舎の見学では、今の小学校建築ではまず感じられない一種の凄みのようなものを感じました。
時折、特定の理由で非常な熱意をもって作りこまれた建築物が廃墟になると、込められた情念がなすものか、畏怖さえ感じるような人を惹きつける独特の魅力を放つことがあります。言い方が適切でないかもしれませんが、井野小学校旧校舎には、そうしたものに近い魅力がありました。
小文間小学校旧校舎と同様に細分まで作りこまれた校舎ではありましたが、違いはその規模だと思います。「集落の大人たちがその集落の子どもたちのために」というには、想定されている児童の数があまりに多くスケールアウトしていて、まさに「公共施設」の規模になっています。しかしその一方で、細部は、小文間小学校にも負けないほどの子どもの目線に立った作りこみがされています。また、一般的な建築計画で語ればアウトとされるような細部の仕掛けが、丁寧な個別性によって実現されており、今の学校建築ではおそらくは不可能であろう景観を作り出しています。まさに、細部に宿った何かが語りかけてくる凄みとでもいえばいいでしょうか。
規模の大きな校舎なので、このままの形で保存するのは難しいかもしれません。しかし、二度と再現されないであろうタイプの校舎だとは思います。もし一部だけでも保存が可能なら、一階部分を残すというような水平的なものではなく、耐震性や補修問題などで難しいとは思いますが、一部を 1 階 2 階 3 階 4 階屋上と垂直方向に保存した方が、この校舎の特徴や不思議さ、凄みが残せるのではないかと思いました。
おそらくは、新しく団地ができて以来、初めて出会った子どもたちとその親たちが井野小学校旧校舎を舞台に、地域の文化を作っていったのではないかと思います。小文間小学校が集落によって作られた学校なら、井野小学校は地域を作った学校と言えるのではないでしょうか。形を残すことで地域の核となる可能性も含めて検討が進むことを願っております。
以上、御礼にかえて、拙い感想を述べさせていただきました。このたびは、大変お世話になりました。小文間小学校旧校舎、井野小学校旧校舎、ともに公共財として文化財としてよい形で保存活用されていくことを願っております。
皆様のご活躍を心よりご祈念いたします。
◾️伊藤 俊介 ― 東京電機大学
小文間小学校
小文間小学校は学校建築計画の歴史に必ずと言っていいほど登場する学校です。標準的な片廊下一文字型校舎が新設の大多数を占める時代に、子供が過ごす環境としての質や小規模校のあり方への提案に富んだ学校建築として重要な事例です。
普通教室はワークスペース部分を出入口側に設け、一斉授業から展開できる余地を持たせています。ここを区切るように棚を造りつけて(造作だったと思います)単に広い教室にならないようにしていると思われます。庇、袖壁で日射を制御し、ハイサイドライト、トップライトで奥にも自然光が入るようになっています。
特別教室では、北側の図書室や音楽室の床レベルを上げることで、(想像ではありますが)南側にハイサイドライトを設けることが可能になり、採光を確保しつつ空間に変化をつけています。また、小規模校における特別教室の利用率の低さという課題に対して、理科、家庭科、図工を総合特別教室として一室にまとめることで対応しています。
小文間小学校は平面計画だけでなく、断面も各部も密度高く設計された優れた作品です。平屋・小規模であることから保全しやすいと思われ、補修した上で活かす道は十分あると考えられます。
井野小学校
井野小学校は独特で複雑な平面計画・意匠の非常に興味深い学校建築でした。小文間小学校と同様に、教室を充実させ、空間に変化をつけることを目指したと想像できます。大規模な学校ながら教室棟が分節され、小さな中庭空間が散りばめられて体感するスケールはコンパクトです。学校内を移動する時も、校舎のすき間や階段からの風景の切り取られ方が変化に富んでおり、どこに行っても同じ空間がないように感じられます。
教室は落ち着いた空間で、出入口近くのワークスペース部分は上階があるにもかかわらず、屋根形状に変化があるように感じる北側採光の工夫が特徴です。バリアフリーや安全性の観点から現在では実現できない校舎ですが、児童から見れば学校生活をここでおくるのがワクワクする校舎だったのではないでしょうか。
まとめ
長倉康彦先生はオープンスペース型学校建築の提案・計画、多目的スペース補助の制度化に尽力された先生として私の世代には知られていますが、この2校は多目的スペースが作られる前の、面積の制約が厳しい時代(補助基準面積は1人あたり換算で現在の約1/2)に、教室を拡張し豊かな空間を作った作品であり、強い感銘を受けました。
小文間小学校は小規模であることから保全・活用の可能性は十分あると考えます。コミュニティ施設、文化施設などの機能に転用するのであれば、一部の部屋は集会室、活動室、あるいはカフェ等の地域住民の居場所とし、教室の一部は使用時の状態で復元展示をすることが考えられます。また、歴史的な学校建築として全体を博物館とするのも選択肢です。
文化施設としての活用事例は多く、建築的価値の面からも参考になる例としては京都市学校歴史博物館などがあります。博物館にしたケースは擬洋風校舎の事例が多く、遷喬小学校(岡山県)、開智学校、中込学校(長野県)などがあります。スコットランドの例ですが、建築を保存しつつ各年代の教室を復元展示し、市内の小学生が社会科見学で訪れて、当時の制服を着て昔の形態の授業を体験するのに使われていました。日本でいえば、「終戦直後の教室」「高度経済成長期の教室」を体験学習できるような施設です。
一方、井野小学校は正直、保存は困難ではないかと思われます。規模的に補修の労力・コストが大きくなるだけでなく、この規模の施設を活用するだけの需要が不足することが予想できます。一部保存したとしても、特徴的なデザイン性が棟と棟の組み合わせや合間の空間にあることから、魅力が十分に残らないのではないでしょうか。
いずれにせよ、両校とも校舎に入ることができる状態のうちに図面化・撮影し、かつての学校運営、施設使用状況についても調べ、貴重な戦後日本の公共施設を記録に残すべきだと考えます。今回、このような得難い機会をいただき、ありがとうございました。
◾️垣野 義典 ― 東京理科大学
小文間小、井野小に伺って、徹底したスケールコントロールに驚愕しました。きっと児童の生活におぴったりの絶妙は寸法でまとめ上げられているのではないでしょうか。(詳細別添)
◾️川島 智生 ― 神戸情報大学院大学
「クローズドされた小文間小学校と井野小学校の今後に寄せて」
学校建築史の立場から、クローズドされた小文間小学校(1964 年完成)と井野小学校(1967 年完成)の今後について少し考えたことを記す。この二校は共に建築家長倉康彦によって設計され、一見風変わりな外観とプランニングを持つ、ある意味では実験的な校舎である。小文間校は今後の行く末が定まっておらず、井野校は取り毀しが決定している。現在の日本では戦後 1950 年代 60 年代に建設された学校の多くが何ら顧みられることなく、日々毀されている。耐震性能に欠ける点や耐用年数をすぎた点、少子化による統廃合などが取り毀しの理由だが、一方で戦前までに建設された校舎は明治期の擬洋風校舎に代表されるように相当数が文化財となって保存される。国宝になった開智学校はその好例である。鉄筋コンクリート造校舎でも昭和戦前期に建設された京都の明倫小学校や山形の第一小学校のように一定の評価を得て、保存がなされるものも増えている。
ところが、戦後の学校建築で保存が決定された校舎は皆無である。その理由は幾つか考えられるが、一番大きなことは評価が定まっていないことにある。新しすぎるということも筆者が研究を開始した 1980 年代にはあったが、西戸山小学校のようにすでに 70 年以上経過するものもある。そのこともあり、筆者は『戦後モダニズムの学校建築』という本を今年上梓し、戦後 1950 年代 60 年代の校舎の意味を問うた。その実例として小文間小学校を取り上げている。戦前までの学校と戦後の学校の間には大きな隔絶がある。とりわけ小学校にそのことは顕著にみることができる。戦後は従来の教室を並べただけの箱が、教室単位にばらされ、ワーキングスペースなどを配した多様な空間が目指された。クラスター型が採用されることで、各教室の独立性が確保され、二面からの採光が可能となる。また権威的なファサードは失せ、正面性は希薄化した。イギリスやデンマークの学校の影響を受けて試行された吉武泰水らによる一連の校舎にそのことは現れている。吉武門下生の長倉康彦が設計した小文間小学校と井野小学校もそのながれに位置する。
現在吉武泰水らが設計した小学校校舎はほとんど残っていない。そのなかで、長倉康彦の設計したこの二校が現存していることは希有な事例といえる。団地と対になった井野校は住宅地開発との関連から、古い農村集落のなかにある小文間校は地域コミュニティとの関係のなかで、それぞれ位置付けられよう。井野校については解体が決定しているために提案はむずかしいが、一部を残して団地の記憶をとどめる展示兼地域コミュニティ施設が思い浮かんだ。一方で小文間校については、校舎をまるごと保存し、学校建築ミュージアムとするのはどうだろうか。戦後の学校建築を転用した、わが国では最初の文化施設となりうる。小文間校のグランドを挟んで向かいには、地区の住民を主体とした公民館があるために、メインのコミュニティ施設としての転用はむずかしいことがあり、思い切って学校建築ミュージアムとした次第である。戦後の学校建築を記念する施設である。1960 年代の実験的な試みによって生まれたこの二校を後世に遺すことは、学校建築史上、きわめて意義深いことだと筆者は考えている。
以上 報告取りまとめ 日本建築学会・教育施設小委員会 主査 下倉玲子